平賀源内の残した名言とキャッチコピー:江戸の奇才が紡いだ言葉の真実

平賀源内の残した名言とキャッチコピー 名言・格言
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江戸時代中期、まるで彗星のように現れ、多彩な才能で時代を駆け抜けた人物がいます。その名は、平賀源内

本草学(薬草や鉱物などの学問)、蘭学(オランダを通じて入ってきた西洋の学問)、戯作(江戸時代の小説)、絵画、陶芸、発明、そして産業振興…
彼が活躍した分野は驚くほど広く、「日本のダ・ヴィンチ」あるいは「日本のエジソン」と称されることもあります。

しかし、平賀源内の魅力は、その多才な業績だけにとどまりません。
彼が残したとされる鋭い格言や、現代にも通じる巧みなキャッチコピーは、数世紀を経た今もなお、私たちの心をとらえて離さないのです。

この記事では、そんな平賀源内の「言葉」に焦点を当てていきます。

  • 「良薬は口に苦し、出る杭は打たれる」って本当に源内が言ったの?
  • 「土用の丑の日にウナギ」を広めたのは源内って本当?
  • 記録に残る、源内が書いた「広告コピー」ってどんなもの?

巷で語られる源内の名言やキャッチコピーの数々。その中には、確かな記録に基づくものもあれば、後世に語り継がれる中で生まれた「伝説」も含まれています。

この記事を通して、記録と伝説の両面から平賀源内の言葉の真実に迫り、江戸時代の非凡な才能が生み出した発想の源泉と、その言葉が持つ現代へのメッセージを探っていきましょう。

江戸のマルチクリエイター:平賀源内の生涯と時代

平賀源内作のエレキテル(複製)国立科学博物館の展示

平賀源内は、享保13年(1728年)、讃岐国(現在の香川県さぬき市)の武士(足軽)の家に生まれました。
幼い頃からその才能は際立っていたようで、11~12歳の頃には、お神酒を供えると顔が赤くなる仕掛けの掛け軸「御神酒天神おみきてんじん」を発明し、「天狗小僧」と呼ばれたという逸話が残っています。

地元の藩医から本草学を学び、その後江戸へ出て本格的に学問を修めました。
宝暦2年(1752年)からは長崎へ遊学し、当時唯一の西洋への窓口であった出島を通じて、オランダ語や西洋の進んだ知識に触れます。
この経験が、彼の視野を大きく広げ、後の多彩な活動へと繋がっていくのです。

源内の業績は、まさに「マルチクリエイター」と呼ぶにふさわしいものでした。

  • 博物学のパイオニア
    • 日本初の物産展とも言われる「薬品会やくひんかい」を企画・開催。全国から珍しい薬草や鉱物を集めて展示し、知識の交流を図りました。
    • その成果をまとめた図鑑『物類品隲ぶつるいひんしつ』(1763年)は、日本の博物学の発展に大きく貢献しました。
  • 驚くべき発明と技術
    • オランダ製の静電気発生装置「エレキテル」を修理・復元したことはあまりにも有名です。
      彼はこれを治療器具として宣伝し、見世物としても公開しました。
    • 燃えない布「火浣布かかんぷ」を石綿から開発したり、日本初の寒暖計(温度計)を製作したりと、その発明意欲は尽きることがありませんでした。
  • 産業の振興を目指して
    • 故郷の讃岐では、陶工を指導し、「源内焼」と呼ばれる色鮮やかで独創的な焼き物を生み出しました。
    • 羊毛から毛織物「羅紗らしゃ」を試作したり、各地で鉱山開発のアドバイスを行ったりと、輸入品に頼らない国づくり(国益)を目指しました。
  • 文芸・芸術の世界でも活躍
    • 風来山人ふうらいさんじんのペンネームで『風流志道軒伝ふうりゅうしどうけんでん』などの戯作(滑稽本)を発表し、人気を博しました。
    • 福内鬼外ふくうちきがいとしては、『神霊矢口渡しんれい やぐちのわたし』などの浄瑠璃(人形劇の脚本)を手がけました。
    • 西洋画の技法にも精通し、秋田藩の小田野おだの直武なおたけらに影響を与え、秋田蘭画の発展にも寄与しました。

源内が生きた江戸時代中期は、10代将軍・徳川家治の治世。
鎖国体制下にありながらも蘭学への関心が高まり、老中・田沼意次による積極的な経済政策(殖産興業)が進められた時代でした。源内は、まさに時代の追い風を受けて活躍した人物と言えるでしょう。

『解体新書』で有名な杉田玄白とは深い親交を結び、互いの知識や才能を認め合っていました。
一方で、高松藩の藩士という身分を捨てて自由な立場で活動するなど、既存の枠にとらわれない生き方を選びます。
その非凡な才能と型破りな性格は、多くの人を魅了する一方で、摩擦や困難も生み出しました。
彼の人生は、まさに波乱万丈そのものだったのです。

源内「名言集」の真実 – 本当に彼の言葉なのか?

平賀源内には、現代でも人生訓や座右の銘として語られる「名言」がいくつかあります。
しかし、これらの言葉は本当に源内自身が語ったものなのでしょうか?
ここでは、代表的なものをいくつか見ていきましょう。

格言1:「良薬は口に苦く、出る杭は打たれる習ひ」

  • 意味
    「良い薬が飲むときに苦いのと同じように、ためになる忠告は聞くのがつらいものだ。そして、才能や行動が目立つ者は、人から妬まれたり妨害されたりするのが世の常である。」
  • よくある解釈
    耳に痛い真実を受け入れることの大切さと、社会の中で突出することの難しさを説いた言葉とされています。
  • 検証
    この言葉は、インターネット上の名言集や、書道作品を販売するサイトなどでよく見かけられます。
    しかし、多くのサイトで「出典は保証されていません」といった注意書きが見られます。
    源内の著作など、一次資料でこの言葉が確認されたという記録は見当たりません。

    とはいえ、源内自身、その才能と型破りな生き方ゆえに、周囲からの嫉妬や妨害に苦しんだであろうことは想像に難くありません。
    藩を飛び出した経緯などを考えると、彼の実感を伴った言葉であった可能性も否定はできません。
    しかし、それが真摯な忠告なのか世の中への皮肉なのか、あるいは自嘲だったのかは今となっては知る由もありません。

格言2:「人は情けの下で立つ」

  • 意味
    「人は、お互いの思いやりや助け合いがあってこそ、生きていくことができる。」
  • よくある解釈
    人間関係における共感や相互扶助の大切さを説く、温かいメッセージとして受け止められています。
  • 検証
    こちらも、格言1と同様に、主に商業サイトや個人のブログなどで見られますが、出典が明記されているものはほとんどありません。
    「出典保証なし」とされることが多い言葉です。

    源内は、杉田玄白をはじめとする多くの蘭学者仲間や活動を支援してくれるパトロンたちとの交流がありました。
    そうした経験から、人の繋がりの重要性を感じていた可能性はあります。
    しかし、この言葉を彼自身が語ったという直接的な証拠は見つかっていません。

格言3:「考えていては何もでき申さず候、われらはしくじるを先につかまつり候」

  • 意味
    「あれこれ考えてばかりいては、何も実行することはできない。私たちはまず、失敗することから始めるのだ。」
  • よくある解釈
    頭で考えるだけでなく、まず行動すること、そして失敗を恐れずに挑戦することの重要性を説く、力強いメッセージとされています。
  • 検証
    これも、WEBサイトなどで見られ、「出典保証なし」の注意書きが付いていることが多いようです。
    YouTubeなどで紹介されることもありますが、確かな一次資料は見当たりません。

    しかし、この言葉は、エレキテルの復元や火浣布の開発、源内焼の創始など、数々の新しいことに挑戦し、成功も失敗も経験した発明家・事業家としての源内の姿と非常によく合致します。
    試行錯誤を厭わない、彼の行動的な精神をよく表していると言えるでしょう。

なぜ「源内の言葉」として広まったのか?

これらの格言が、平賀源内自身の言葉であるという確たる証拠は、今のところ見つかっていません。
歴史上の有名な人物に、後世の人々が感銘を受けた言葉や、その人物像にふさわしいと考えた言葉が「〇〇の言葉」として語り継がれていくことは、決して珍しいことではありません。

しかし、たとえ後世の創作であったとしても、これらの言葉が「平賀源内の名言」として広く受け入れられているのには理由があります。

  • 出る杭は打たれる
    既成概念にとらわれず、新しいことに挑戦し続けた源内の苦悩を反映しているように感じられる。
  • 「人は情けの下で立つ」
    多くの人々と交流し、協力し合いながら活動した源内の人間関係を想起させる。
  • 「考えていては何もでき申さず候…」
    失敗を恐れずに行動を起こした発明家・実践家としての源内の精神性そのもの。

これらの言葉は、源内自身の直接的な発言というよりも、彼の生き方や、人々が彼に対して抱く「革新的」「行動的」「多才」「困難に立ち向かった」といったイメージを凝縮した「鏡」のようなものなのかもしれません。
言葉の真偽は別として、私たちが平賀源内という人物に何を見出し、何を感じているかを映し出していると言えるでしょう。

元祖コピーライター? 平賀源内のマーケティング術

平賀源内は、学問や発明だけでなく、現代でいう「マーケティング」や「広告」の分野でも、驚くべき才能を発揮しました。
特に有名なのが、「土用の丑の日」の逸話と、歯磨き粉「嗽石香」の広告コピーです。

「土用の丑の日」のウナギ – 伝説か、真実か?

夏になるとウナギの売れ行きが落ちて困っていた鰻屋に、源内がアドバイスをした、という話はあまりにも有名です。

  • 物語
    源内は鰻屋の店先に「本日 土用丑の日」と書いた大きな紙を張り出すことを提案した、と言われています。(看板の文言には「土用丑の日 うなぎの日 食すれば夏負けすることなし」など諸説あり)。
    当時、「うしの日」に「う」のつくものを食べると夏バテしない、あるいは縁起が良いという民間信仰があったため、それを逆手に取ったアイデアでした。
  • 結果
    この宣伝が大ヒット! 他の鰻屋もこぞって真似をし、やがて夏の土用の丑の日にウナギを食べる習慣が江戸中に広まり、現代にまで続いている… というのが、よく語られるストーリーです。
  • 歴史的根拠は?
    実は、この「土用の丑の日」の逸話について、平賀源内が関わったことを示す直接的な証拠(彼自身の著作や当時の信頼できる記録)は見つかっていません。
    • もともとウナギの旬は冬であり、滋養のために食べる習慣があったこと。
    • 「丑の日」にまつわる別の俗信(冬の丑の日に紅をさす「丑紅」など)が背景にあった可能性。
    • 江戸後期の書物『明和誌』には、土用の丑の日に鰻を食べる習慣が安永・天明の頃(1772年~1789年、まさに源内が活躍した時代)に始まったと書かれていますが、源内の名前は出てきません。
    • 狂歌師の大田南畝おおた なんぽが発案者だという説もあります。
  • 伝説としての価値
    証拠がないにも関わらず、この話がこれほど広く信じられているのはなぜでしょうか?
    それは、この逸話が、平賀源内の「機知に富んだアイデアマン」「優れたマーケター」というイメージにぴったり合致するからです。
    物語としても面白く、彼の非凡な才能を象徴するエピソードとして、人々の記憶に深く刻まれています。
    これは、歴史上のカリスマ的な人物に、魅力的な(しかし根拠の薄い)逸話が付随していく典型的な例と言えるかもしれません。

確かな証拠! 歯磨き粉「嗽石香」の広告コピー

一方で、平賀源内が実際に広告コピーを書いていたことは、確かな記録によって裏付けられています。
その代表例が、歯磨き粉「嗽石香そうせきこう」の広告文です。

  • 背景
    明和6年(1769年)、源内は恵比寿屋えびすやという店主の依頼を受け、この歯磨き粉の広告文(引札:ひきふだ、今でいうチラシ)を作成しました。
  • 革新的なコピー
    源内は、「川合惣助元無かわいそうすけもとなし」というペンネーム(洒落?)を使って、非常にユニークな広告文を書きました。
    • まるで歌舞伎役者の口上こうじょうのような、語りかける調子。
    • 「実はこれ房州ぼうしゅうの砂に香を付たるばかりの物にて」
      (実はこれ、房州(千葉県南部)の砂に香りを付けただけのもので…)
    • この薬の功能は更にほかには無御座候ござなくそうろう
      (この薬の効能は、別にこれといってありません)
    • かねほしさのあまりに」など、驚くほど正直で、ユーモラス、そして少し自虐的な表現。
  • 狙い
    これは、商品の効能を大げさに謳うのではなく、あえて本音(?)を語ることで、江戸っ子の「洒落しゃれ」の心、つまり、機転やいきを理解する感性に訴えかける、高度なコミュニケーション戦略でした。
  • 出典
    この広告文は、源内の死後、天明3年(1783年)に編さんされた江戸時代の広告コピー集『飛花落葉ひからくよう』に収録されており、現存しています。
    これは動かぬ証拠です。
  • 意義
    これは、日本において文化人(有名人)が手がけた広告コピーとして、記録に残る最も古い例の一つとされています。
    単なる商品説明を超え、読者の心を引きつけるエンターテイメント性を持った、まさに画期的な広告でした。
  • その他:源内は、安永4年(1775年)には、音羽屋(おとわや)という店の「清水餅しみずもち」の広告コピーも手がけたとされています。

「コピーライターの祖」としての平賀源内

これらの確かな実績から、平賀源内は「日本のコピーライターの祖」とも評価されています。
現代でも、彼の故郷・香川県さぬき市では、高校生を対象としたコピーライティングコンテスト「平賀源内甲子園」が開催されており、その功績が称えられています。

「土用の丑の日」の伝説は真偽不明ですが、「嗽石香」の広告コピーは、源内が持つ並外れた発想力と、人々を惹きつけるコミュニケーション能力が、決して単なる伝説ではなかったことを雄弁に物語っています。
たとえウナギの話が作り話だったとしても、源内がコミュニケーションの革新者であったことは、この「嗽石香」の広告コピーによって証明されているのです。

破天荒な人生から見える、源内の素顔

記録や作品だけでなく、平賀源内にまつわる様々な逸話を知ることで、彼の人物像はより立体的に浮かび上がってきます。
そこからは、単なる「天才」という言葉だけでは収まらない、人間味あふれる、そして時には破天荒な素顔が見えてきます。

  • 発明の才と遊び心
    幼少期の「御神酒天神」は、彼の生まれながらの発明の才能と、人を驚かせ楽しませる遊び心を示しています。
  • 現実的な商才(?)
    修理したエレキテルを、病気治療の効果を謳いつつ見世物として公開し、収入を得ようとした側面。
    「効かなくても害はない」と言ったとされる(真偽不明)エピソードは、彼の現実的な側面や、少し「うさんくさい」魅力も感じさせます。
  • 言葉遊びとユーモア
    ウナギを「サイテヤーク」(割いて焼く)、饅頭を「オストアンデル」(押すと餡出る)など、オランダ語風の造語を作って楽しんでいたという話は、彼の機知と言葉への鋭い感覚、そして異文化への興味を示しています。
  • 友情と触媒の役割
    『解体新書』の杉田玄白とは、性格は対照的でありながらも生涯続く友情で結ばれていました。
    源内が玄白に『解体新書』の挿絵画家として小田野直武を紹介したことは、人と人、アイデアとアイデアを結びつける彼の触媒しょくばいとしての役割を物語っています。
    玄白が源内の墓碑銘に「非常の人」(並外れた人物)と刻んだことからも、その才能への深い敬意がうかがえます。
  • 挑戦と挫折
    火浣布(燃えない布)のような画期的な発明も、原料の入手難などから量産化には至らず、事業としては成功しませんでした。
    経済的に困窮し、自ら「貧家銭内ひんかぜにない」と名乗る(洒落)こともあったようです。
    また、故郷の高松藩との関係が悪化し、藩士の身分を捨てざるを得なくなったことは、彼の野心と既存の組織との間に生じた軋轢あつれきを示しています。
  • 衝撃的な最期
    安永8年(1779年)、源内は人を殺傷した(あるいは傷つけた)罪で投獄され、翌年、獄中で病死(破傷風と言われる)しました。
    事件の真相については、盗みと勘違いした、酒に酔っていた、大名屋敷の修理を巡るトラブルだったなど諸説ありますが、はっきりとは分かっていません。
    「実は生きていた」という伝説まで存在しますが確証はありません。
    この悲劇的な最期は、彼の波乱に満ちた人生を象徴する出来事として今も多くの謎を残しています。

これらの逸話は、平賀源内が、輝かしい才能を持ちながらも、衝動的で、野心的で、時代の制約や自身の性格とも格闘した、非常に複雑な人間であったことを示唆しています。
彼の人生は、成功と失敗、喜びと苦悩、そして輝きと影が織り交ざった、ドラマティックなものでした。
その完璧ではない人間味こそが、彼の業績とともに、私たちを惹きつけてやまない理由の一つなのかもしれません。

時代を超えて響く、源内の「発想」と「言葉」の力

平賀源内が後世に与えた影響は、計り知れません。

  • 本草学や博物学の発展に貢献し、
  • エレキテルや寒暖計を通じて西洋の科学技術を紹介・普及させ、
  • 戯作という新しい文学ジャンルを開拓し、
  • 西洋画の導入と発展に寄与し、
  • 源内焼によって陶芸の世界に新たな風を吹き込み、
  • そして、広告という分野で革新的な試みを行いました。

特筆すべきは、彼が単に新しいものを「作る」だけでなく、それを「伝え、広める」ことに長けていた点です。
著作の出版、薬品会のようなイベント開催、エレキテルの実演、そして機知に富んだ広告コピー。
これらはすべて、知識やアイデアを社会に流通させ、人々の関心を引きつけるための、彼の卓越したコミュニケーション能力の表れでした。

平賀源内が、なぜ現代に至るまでこれほど人々を魅了し続けるのでしょうか?

  1. 驚くべき多才さ
    一つの分野にとどまらない、分野横断的な知性と才能。
  2. 時代の体現者
    蘭学の興隆や殖産興業など、江戸時代のダイナミズムを象徴する存在。
  3. 人間的なドラマ
    成功だけでなく、挫折や悲劇的な最期も含めた波乱の人生。
  4. 物語と伝説の力
    「土用の丑の日」のような、真偽はともかく魅力的なエピソード。
  5. 現代にも通じる精神
    飽くなき好奇心、常識にとらわれない革新性、そして行動力。

近年でも、彼をモデルとした人物が登場するNHK大河ドラマ『べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜』(蔦屋重三郎が主人公)が制作されるなど、その関心は衰えることを知りません。

特に、「考えていては何もでき申さず候、われらはしくじるを先につかまつり候」という(真偽は不明ながらも彼に帰せられる)言葉は、現代の起業家精神やチャレンジ精神にも通じるものがあり、多くの人々に勇気を与えています。

結局のところ、平賀源内の最も重要な遺産は、特定の発明品や記録された言葉そのもの以上に、「知りたい」「作りたい」「広めたい」という尽きることのない好奇心と、分野の垣根を越えて思考し行動した、その生き方そのものにあるのかもしれません。
彼は、多様な知識がいかに結びつき、社会にインパクトを与え得るかを示してくれました。

彼を取り巻く数々の伝説や、出典不明の名言さえも、彼の非凡な精神性が、時代を超えて人々の心を動かし続けている証と言えるでしょう。
平賀源内を理解するには、記録された確かな業績と、彼が生み出した文化的共鳴(伝説やイメージを含む)の両方を見つめる必要があるのです。

おわりに:平賀源内 – 謎多き天才の実像と虚像

平賀源内は、江戸時代中期という変革の時代に、驚くべき多才ぶりを発揮した、まさに杉田玄白が評した通りの「非常の人」でした。

この記事では、彼にまつわる「名言」と「キャッチコピー」に光を当ててきました。その結果、見えてきたのは、単純ではない、二つの側面でした。

一つは、記録として確かに残る、彼の革新的なコミュニケーション能力です。
歯磨き粉「嗽石香」の広告コピーは、彼の機知、ユーモア、そして時代を先取りするマーケティング感覚を雄弁に物語っています。

もう一つは、広く知られているものの、出典が定かではない「名言」や「伝説」です。
「良薬は口に苦く…」「人は情けの下で立つ」「考えていては…」といった格言や、「土用の丑の日」の逸話は、源内本人の言葉や行動であるという確証はありません。
しかし、これらの言葉や物語は、人々が平賀源内という人物に抱くイメージ、つまり「革新的」「行動的」「機知に富む」「困難に立ち向かった」といった像を色濃く反映しています。

平賀源内は、記録された「確かな天才性」と、「人々の心に深く根付いた伝説」とが混ざり合い、今なお私たちを惹きつけてやまない、尽きることのない謎を放つ人物です。

彼の物語は、歴史上の人物がいかに複雑な存在であり、その評価やイメージが時代とともにどのように形作られていくかを教えてくれます。

確かな記録は、彼の鋭い知性と非凡な才能を明らかにします。
そして、彼に帰せられる言葉や伝説は、彼の型破りな生き様が持つ、時を超えた魅力と影響力の大きさを物語っているのです。

平賀源内の人生と、彼が残した(あるいは、残したとされる)言葉に触れるとき、私たちは、江戸時代の熱気と、一人の天才が放った強烈な光、そしてその影を感じずにはいられません。
彼の飽くなき探求心と行動力は、きっと現代を生きる私たちにも、何か新しい一歩を踏み出すヒントを与えてくれるはずです。

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