趣味の道具を新しく買い替えたときや、仕事で最新のデバイスを手にしたとき、「これさえあればもっと上手くいくはずだ」と期待を膨らませることは誰にでもあるものです。
しかし、いざ始めてみると、結局は使い手の腕前が結果を左右することに気づかされます。
卓越した技能を持つ人は、どんな道具であってもその性能を引き出し、見事な成果を収めるものです。
このような状況を、「弘法筆を選ばず」(こうぼうふでをえらばず)と言います。
意味・教訓

「弘法筆を選ばず」とは、書道の名人である弘法大師(空海)が、どんな筆であっても見事な書を書き上げたという逸話から、真の達人は道具の良し悪しを問題にせず、持てる技術を最大限に発揮するという意味です。
転じて、失敗の理由を道具のせいにしたり、形から入ることばかりに執着したりするのを戒める教訓としても用いられます。
語源・由来
「弘法筆を選ばず」の由来は、平安時代初期の僧侶であり、書の名手としても名高い空海(弘法大師)の伝説に基づいています。
空海は、嵯峨天皇、橘逸勢とともに「三筆」と称されるほどの達人でした。
彼がどんなに質の悪い筆を渡されても、決して文句を言わずに素晴らしい書を書き上げたという逸話が、この言葉の起源とされています。
ただし、歴史的な文献を紐解くと、この言葉が一般に定着したのは江戸時代のことです。
『江戸いろはかるた』の読み札として採用されたことで、技術の未熟さを棚に上げて道具を批判する人を、皮肉を込めて諭す表現として広く知れ渡るようになりました。
使い方・例文
「弘法筆を選ばず」は、誰かの優れた技術を称賛するときや、道具のせいにしようとする自分や他人を戒めるときに使われます。
例文
- 彼女は使い古された安いカメラでもプロのような写真を撮る。まさに「弘法筆を選ばず」だ。
- ラケットの質を気にする前に基礎を練習しなさい。「弘法筆を選ばず」と言うだろう。
- 料理の鉄人は、ありふれた家庭用の包丁一本で最高の一皿を作り上げた。「弘法筆を選ばず」を地で行く光景だった。
誤用・注意点
この言葉は「道具はどうでもいい」という無頓着さを勧めるものではありません。
- 「道具を粗末にする」意味ではない
あくまで「技術があれば道具の欠点を補える」という意味であり、最初から質の悪い道具をわざわざ選ぶべきだと言っているわけではありません。 - 目上の人に使う際の配慮
目上の人に対して「部長は弘法筆を選ばずですね」と使うと、相手によっては「私が使っているのは、そんなに悪い道具に見えるのか?」と不快にさせてしまう可能性があります。
基本的には第三者の能力を評するか、自分自身を戒める際に使うのが適切です。
類義語・関連語
「弘法筆を選ばず」と似た意味を持つ言葉には、以下のようなものがあります。
- 能書筆を選ばず(のうがきふでをえらばず):
字の上手な人は、筆の良し悪しに関わらず立派な書を書く。 - 上手は得物を選ばず(じょうずはえものをえらばず):
腕の良い者は、武器や道具がどのようなものであっても、見事に使いこなす。 - 名人は道具を択ばず(めいじんはどうぐをえらばず):
優れた技術を持つ人は、どんな道具でも使いこなして優れた成果を出す。
対義語
「弘法筆を選ばず」とは対照的な意味を持つ言葉は、以下の通りです。
- 下手の道具調べ(へたのどうぐしらべ):
技術が未熟な人ほど、道具の質や準備の不備を言い訳にしたり、道具の収集にばかりこだわったりすること。
英語表現
「弘法筆を選ばず」を英語で表現する場合、以下の定型表現がよく使われます。
A bad workman quarrels with his tools.
- 意味:「腕の悪い職人は道具と喧嘩する(道具のせいにする)」
- 解説:日本語の「下手の道具調べ」に近いニュアンスですが、技術の大切さを説く反意の教訓として英語圏で最も一般的に使われる諺です。
- 例文:
Stop complaining about the laptop. A bad workman quarrels with his tools.
(パソコンの文句を言うのはやめなさい。腕の悪い職人ほど道具のせいにするものだよ。)
A good marksman may be known by his aim, not by his arrows.
- 意味:「良き射手は矢ではなく、その狙いによって知られる」
- 解説:道具(矢)の良し悪しではなく、本人の腕前(狙い)こそが重要であるという、肯定的なニュアンスの表現です。
実は筆にこだわっていた空海
ちなみに、この言葉には興味深い事実が隠されています。
「弘法筆を選ばず」という言葉が一人歩きしていますが、空海本人が残した言葉には、全く逆のことが記されているのです。
空海が嵯峨天皇に筆を献上した際の添え状(『性霊集』)の中で、「書を成すには、必ず良い筆、良い紙、良い墨が必要である。道具が悪ければ、思うような表現はできない」という趣旨のメッセージを綴っています。
真の達人は「どんな道具でも使いこなせる」境地にありながら、同時に「最高のパフォーマンスを発揮するためには、道具の質が極めて重要である」ことを誰よりも理解していたのかもしれません。
まとめ
道具に頼りすぎず、自分自身の腕を磨くことの大切さを教えてくれる「弘法筆を選ばず」という言葉。
現代の私たちは、つい最新のツールや効率的な機材に目を奪われがちですが、本当に価値のある成果を生み出すのは、それを使う「人」の技術と心意気です。
まずは手元にあるものを大切に使いこなし、言い訳をせずに工夫を重ねる。
そんな姿勢を持つことで、どのような環境であっても揺るぎない自信を持って取り組むことができるようになることでしょう。







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