信頼していた友人に嘘をつかれた、あるいは理不尽な理由で自分だけが責められた。
胸の奥から熱い塊がせり上がり、全身の血が逆流するような感覚に陥ることがあります。
どれほど抑えようとしても止められない、爆発寸前の激しい憤り。
そんな状況を、「腸が煮え返る」(はらわたがにえかえる)と言います。
意味・教訓
「腸が煮え返る」とは、激しい怒りのために我慢ができない状態を指す言葉です。
怒りによって体内が沸騰するかのように熱くなり、感情をコントロールしきれない様子を表現しています。
単なる「腹が立つ」というレベルではなく、激しい憎悪や強い憤りを伴う際に用いられます。
「煮えくり返る」という強調された形で使われることも多いですが、意味に違いはありません。
- 腸(はらわた):内臓全般を指すが、古来、日本人はここに「心」や「感情」が宿ると考えていた。
- 煮え返る(にえかえる):激しく沸騰すること。
読み方の注意
この言葉を「ちょうがにえかえる」と読むのは誤りです。
慣用句として用いる場合は、必ず訓読みで「はらわた」と読みます。
語源・由来
「腸が煮え返る」には特定の故事(エピソード)があるわけではありませんが、古来、日本人が持っていた身体感覚に由来しています。
古来の日本では、思考や感情は頭(脳)ではなく、腹部にある内臓に宿るものと考えられてきました。
怒りによって顔が赤くなり、心拍数が上がって体が熱くなる生理現象を、「腹の中にある心が沸騰している」と例えたのが始まりです。
文献としては、江戸時代の浄瑠璃『百日曾我』(1700年頃)に、既に「はらわたが燃え返る」といった類する表現が見られます。
少なくとも300年以上前には、内臓が熱を持つほどの怒りという比喩表現が、庶民の間で定着していたことがうかがえます。
なお、「かるたの読み札が由来」とされることがありますが、かるたはあくまで言葉を収録した媒体に過ぎず、言葉そのものの起源ではありません。
江戸いろはかるたに採用されたことで、より広く世間に浸透したと考えられます。
使い方・例文
「腸が煮え返る」は、一方的な不条理や裏切り、許しがたい侮辱などに対して、理性を保つのが難しいほどの憤りを感じる場面で使います。
非常に強い怒りを伴う表現のため、日常の些細な不満ではなく、深刻な状況を訴える際に用いられます。
例文
- 長年勤めた会社から不当な解雇を宣告され、「腸が煮え返る」思いだ。
- 被災地の善意を悪用する詐欺の手口を知り、「腸が煮え返る」ほどの怒りを覚えた。
- ボクシング審判の誤審に、「腸が煮え返る」思いがした。
- 「あんな無礼な態度をとられては、腸が煮え返るのも当然だ」と父が憤慨していた。
文学作品・メディアでの使用例
近代文学においても、登場人物の抑えきれない憤怒を描写する際にこの言葉が効果的に使われています。
『右大臣実朝』(太宰治)
源実朝の生涯を臣下の視点で描いた作品です。
北条氏による専横や権謀術数に対し、忠義を尽くす者が抱く強烈な憎悪が語られています。
北条のやから、忘恩の古狸、はらわたが煮えくりかえるほど憎く、
類義語・関連語
「腸が煮え返る」と似た意味を持つ言葉には、怒りの深さや文脈に応じていくつかの表現があります。
- 怒り心頭に発する(いかりしんとうにはっする):
激しく怒ること。「心頭(心)」の底から怒りが湧き上がる様子。 - 腹に据えかねる(はらにすえかねる):
怒りを腹の中に収めておくことができず、我慢の限界を超えること。 - 五臓六腑が煮えくり返る(ごぞうろっぷがにえくりかえる):
「腸」だけでなく、全身のすべての内臓が煮えるほどの凄まじい怒り。 - 憤懣やるかたない(ふんまんやるかたない):
怒りや不満をどこにもぶつけようがなく、心が晴れない苦しい状態。
対義語
「腸が煮え返る」とは対照的な意味を持つ言葉は、怒りが静まり、心が落ち着いた状態を表すものです。
- 溜飲が下がる(りゅういんがさがる):
不満やわだかまりが消えて、胸がすっとすること。 - 胸を撫で下ろす(むねをなでおろす):
不安や心配事が解消されて、ほっと安心すること。
英語表現
「腸が煮え返る」を英語で表現する場合、日本語と同様に「体液(血)が沸騰する」という発想の慣用句が使われます。
make one’s blood boil
- 意味:「(人の)血を沸騰させる」
- 解説:誰かの不誠実な態度や不条理な出来事に対し、激怒させられた時に使います。
- 例文:
His arrogant attitude always makes my blood boil.
(彼の傲慢な態度は、いつも私のはらわたが煮え返るほどだ。)
be seething with anger
- 意味:「怒りで煮え立っている」
- 解説:”seethe”(シード)は液体が沸騰して泡立っている状態。
静かに、しかし激しく怒りがこみ上げている様子を表します。
怒りと悲しみの違い
「腸(はらわた)」という言葉を含む有名な慣用句に、「断腸の思い」(だんちょうのおもい)があります。
どちらも「はらわた」への強い刺激を表しますが、その本質は正反対です。
「腸が煮え返る」が熱く沸き立つような「怒り」を象徴するのに対し、断腸の思いは腸がズタズタに千切れるような「深い悲しみ」を象徴しています。
古来の人々は、感情が腹に宿ると考え、その激しさによって「煮える」か「切れる」かと使い分けてきました。
同じ内臓の異変であっても、温度で怒りを、物理的な痛みで悲しみを表現する日本語の奥深さがここに表れています。
まとめ
「腸が煮え返る」とは、単なる不満を超えた、文字通り腹の中がグツグツと沸騰するような激しい怒りを指す言葉です。
言葉の背景には、かつての人々が内臓で感情を受け止めていたという身体感覚があります。
このような強い言葉が浮かんでしまう時は、それだけ心が大きな負荷を受けている証拠かもしれません。
言葉の成り立ちを知ることで、自分自身の激しい感情を少しだけ冷静に見つめ直す、ひとつのきっかけになることでしょう。




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