意味
「泥中の蓮(でいちゅうのはちす)」は、どれほど劣悪な環境に身を置いても染まらず、清潔さや高潔さを失わずにいることのたとえです。
「でいちゅうのはす」とも読みます。
泥沼から芽を出しながらも、一切の汚れを感じさせない美しい花を咲かせる蓮の性質を、人の生き方に重ねています。
ただ優れているというだけでなく、逆境や悪い環境に負けない心の強さをたたえる言葉です。
語源・由来
「泥中の蓮」は、大乗仏教の経典『維摩経』仏道品に出てくる、文殊菩薩の言葉に由来します。
病気で伏せる維摩居士を見舞った文殊菩薩は、悟りを開いた如来になるには何から始めればよいかと問われ、あらゆる煩悩がその出発点になると答えました。
その意味を重ねて尋ねられたときのたとえが、次の言葉です。
譬えば高原陸地に蓮華は生ぜず、卑湿淤泥に乃ち此の華を生ずるがごとし。
(たとえて言えば、高く乾いた土地には蓮の花は生えず、低く湿った泥の沼地にこそこの花が咲く)
煩悩の泥の中にいる人々からこそ仏の教えを求める心が起こる、というのが文殊菩薩の説いたことでした。
故事成語としては意味が転じ、汚れた環境の中でも清らかさを保つものをたたえる言葉として使われています。
使い方・例文
「泥中の蓮」は、周りの道徳が乱れていたり状況が厳しかったりする中で、一人だけ誠実にふるまう人をほめるときに使います。
例文
- 欲深い親族の中で、彼女だけは泥中の蓮のように無欲だった。
- 周囲がサボる中、彼は泥中の蓮のように練習に励む。
- 彼は泥中の蓮のごとく、不正を許さず正義を貫いた。
誤用・注意点
「泥中の蓮」は、ほめられる人とその周りを比べる言葉なので、使うときは比べられる周りの人への気づかいが要ります。
ある人を「蓮」とほめれば、同時にその周りを「汚れた泥」と言うことになります。
公の場で特定の集団を指してこの言葉を使うと、周りの人を侮辱していると受け取られるおそれがあります。
特に、目上の人や自分の勤め先などを指して使うと、人間関係にひびを入れかねないので、使うかどうかはよく考えたほうが無難です。
類義語・関連語
「泥中の蓮」と似た意味を持つ言葉には、以下のようなものがあります。
- 掃き溜めに鶴(はきだめにつる):
汚れた場所に、似つかわしくないほど優れたものや美しいものが現れること。 - 鶏群の一鶴(けいぐんのいっかく):
凡庸な人々が集まる中で、一人だけ際立って優れた才能や品格を持っていること。 - 不染汚(ふぜんな):
仏教用語で、世俗の汚れに染まらず、清らかな状態を保つこと。
対義語
「泥中の蓮」とは対照的に、環境に染まりやすいことを表す言葉は以下の通りです。
- 朱に交われば赤くなる(しゅにまじわればあかくなる):
人は付き合う相手や環境によって、良くも悪くも感化されるということ。 - 近墨必黒(きんぼくひっこく):
悪い友人と交われば、自然と悪い方向に染まってしまうこと。 - 麻の中の蓬(あさのなかのよもぎ):
良い環境にいれば、曲がりやすい蓬も麻のように真っ直ぐ育つ。良い感化のたとえ。
英語表現
「泥中の蓮」を英語で表現する場合、次の決まった言い方があります。
A lily among thorns
「茨の中の百合」
聖書(雅歌)の句から出た表現で、多くの者の中で一人だけ際立って美しい人のたとえ。
Among her rude classmates, she was a lily among thorns.
(無礼な同級生たちの中で、彼女はまさに茨の中の百合だった。)
「泥中の蓮」は一葉『にごりえ』では「泥の中の蓮」
「泥中の蓮」には「泥の中の蓮」という言い方もあります。
樋口一葉の『にごりえ』(1895年)では、お力が、客の結城朝之助に身の上を打ち明ける場面でこの形が使われています。
何より先に私が身の自墮落を承知して居て下され、もとより箱入りの生娘ならねば少しは察しても居て下さろうが、口奇麗な事はいひますとも此あたりの人に泥の中の蓮とやら、惡業に染まらぬ女子があらば、繁昌どころか見に來る人もあるまじ
(樋口一葉『にごりえ』1895年)
お力は「泥の中の蓮とやら」と人の言葉を借りるように持ち出し、この辺りに悪業に染まらない女がいたら、繁盛するどころか見に来る人もいないだろうと言っています。
この語には「蓮は淤泥より出でて染まらず」「汚泥の蓮華」という異形もあります。










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