何か大きな失敗をした直後や、後ろめたいことがある時、何でもない物音が自分のことを責めているように聞こえたり、単なる人影が追手に見えたりしたことはないでしょうか。
極度の恐怖心や不安から、まったく無害なものまで恐ろしく感じてしまう心理。
これを「落ち武者は薄の穂にも怖ず」(おちむしゃはすすきのほにもおず)といいます。
日本の原風景とも言える「ススキ」が登場するこのことわざは、追い詰められた人間の心理を鋭く、そしてどこか哀愁を帯びた情景で描いています。
意味
「落ち武者は薄の穂にも怖ず」とは、戦いに敗れて逃げる武士が、恐怖のあまり、風に揺れるススキの穂を見ただけでも敵兵だと思って怯えることです。
一度ひどい目にあったり、罪悪感を抱えたりしていると、些細なことにも過敏に反応して恐れおののく様子をたとえています。
- 落ち武者(おちむしゃ):戦いに負けて逃げていく武士。
- 薄の穂(すすきのほ):秋の七草の一つ、ススキの穂。
- 怖ず(おず):「怖じる(おじる)」の文語形。怖がる、恐れる。
語源・由来
このことわざに特定の出典となる書物や、特定の武将のエピソードがあるわけではありません。
戦乱が絶えなかった時代、敗走する武士たちが味わった「極限の心理状態」を、第三者が観察して生まれた言葉だと考えられています。
人間の背丈ほどに伸びたススキが群生し、白い穂が風に揺れる様子は、遠目に見ると、まるで大勢の兵士が白い旗指物をなびかせて迫ってくるように見えます。
あるいは、月明かりの下では、その影が刀を構えた人の姿に見えることもあったでしょう。
命からがら逃げている落ち武者にとっては、ただの植物さえも、自分を捕らえに来た敵に見えてしまう。そんな切迫した状況が、この言葉の背景にあります。
使い方・例文
現代においては、実際に誰かに追われている状況だけでなく、「過去の失敗や隠し事による罪悪感・恐怖心」が原因で、何でもないことにビクビクしてしまう心理状態を表すのによく使われます。
例文
- 彼は不正がバレるのを恐れるあまり、上司に呼び出されただけで顔面蒼白になっている。「落ち武者は薄の穂にも怖ず」とはこのことだ。
- 一度空き巣に入られて以来、風で窓がガタつく音にも飛び起きてしまう。まるで「落ち武者は薄の穂にも怖ず」の心境だ。
- 嘘をついている子供が、親の「ちょっとおいで」という言葉に過剰に怯える様子は、「落ち武者は薄の穂にも怖ず」といえる。
類義語・関連語
「落ち武者は薄の穂にも怖ず」と似た意味を持つ言葉には、以下のようなものがあります。
- 草木皆兵(そうもくかいへい):
敵を恐れるあまり、草や木までが敵兵に見えること。中国の故事に由来する言葉で、意味はほぼ同じです。 - 風声鶴唳(ふうせいかくれい):
風の音や鶴の鳴き声を聞いて、敵が来たと怯えること。こちらは「聴覚」による錯覚を指します。 - 幽霊の正体見たり枯れ尾花(ゆうれいのしょうたいみたりかれおばな):
幽霊だと思って怖がっていたものをよく見ると、風に揺れる枯れたススキ(尾花)だったこと。恐怖心が消えれば、実は恐れるようなものではないという教訓。 - 杯中の蛇影(はいちゅうのだえい):
酒杯に映った弓の影を蛇だと思い込み、飲んだ後に病気になったという故事。疑い深く、神経過敏になることのたとえ。
「ススキ」への恐怖の共通点
興味深いことに、「幽霊の正体見たり枯れ尾花」でも、恐怖の対象として「ススキ(尾花)」が登場します。
昔の人々にとって、風に揺れるススキは、それほどまでに「何か不気味なもの」「人の姿」を連想させる植物だったのかもしれません。
対義語
「落ち武者は薄の穂にも怖ず」とは対照的な意味を持つ言葉は、以下の通りです。
- 大胆不敵(だいたんふてき):
度胸が据わっていて、敵や困難を全く恐れないこと。 - 豪放磊落(ごうほうらいらく):
心が大きく、細かいことにこだわらないさま。
英語表現
「落ち武者は薄の穂にも怖ず」を英語で表現する場合、以下のような言い回しがあります。
The wicked flee when no man pursueth
- 意味:「悪人は誰も追っていないのに逃げる」
- 解説:旧約聖書(箴言)に由来する言葉。やましい心があると、追っ手がいないのに勝手に怯えて逃げ出すという意味で、まさに落ち武者の心理を表しています。
A guilty conscience needs no accuser
- 意味:「やましい心に告発者は不要」
- 解説:罪悪感を持っている人は、誰に責められなくても、自らの良心(や妄想)によって勝手に苦しむという意味です。
豆知識:ススキと「招く手」
ススキの穂は、別名を「尾花(おばな)」といいます。動物の尾のように見えることから名付けられました。
また、ススキが風に揺れて手招きしているように見えることから、古くから怪談や幽霊画の背景として好んで描かれてきました。
柳の木と並んで、ススキは日本人の深層心理にある「あの世への入り口」や「不吉な予感」を象徴する植物だったと言えます。
落ち武者がススキに怯えたのは、単に敵兵に見えたからだけでなく、そこに「死の影」を感じ取ったからなのかもしれません。
まとめ
「落ち武者は薄の穂にも怖ず」は、恐怖心がいかに人の目をごまかし、現実を歪めて見せてしまうかを教える言葉です。
人は、心に余裕がない時や後ろめたいことがある時、ただの「植物」を「敵」に変えてしまいます。
もし、周囲のあらゆるものが自分を攻撃しているように感じたら、それは外の世界が危険なのではなく、自分の心の中にいる「落ち武者」が怯えているだけなのかもしれません。








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