意味
「多岐亡羊(たきぼうよう)」とは、方針や選択肢が多すぎてどれを選べばよいか迷い、本来の目的を見失うことです。
道がいくつにも分岐して逃げた羊を見失うことに例えた表現で、もとは学問の道が細かく分かれすぎて真理にたどり着けないことを指していました。
- 亡羊(ぼうよう):逃げた羊を見失う姿。
- 多岐(たき):道がいくつにも分かれている様子。
語源・由来
中国の思想書『列子』(説符篇)に記された逸話に登場します。
思想家である楊朱の隣人が逃げた羊を探しに出たものの、道が幾重にも枝分かれしていたために見失ってしまいました。
これを聞いた楊朱は顔色を変え、しばらく口をきかず、その日は一日笑いませんでした。
そのわけを、のちに心都子が学問の道になぞらえて解き明かした、という話が起源です。

使い方・例文
「多岐亡羊」は、会議での意見の拡散や、進路決定における選択肢の過多など、情報が絞りきれず身動きがとれない状況で使われます。
- 議論が脱線して意見がまとまらず、多岐亡羊の感がある。
- 参考書を何冊も買い込んだ結果、多岐亡羊に陥る。
- 将来の進路候補が多く、多岐亡羊として決めきれない。
類義語・関連語
「多岐亡羊」と似た意味を持つ言葉には、以下のようなものがあります。
- 五里霧中(ごりむちゅう):
周囲の状況が全く見えず、方針や見通しが立たない状態。 - 岐路に立つ(きろにたつ):
分かれ道に直面し、今後の方向性を決断すべき状況。
「多岐亡羊」と「五里霧中」の違い
| 語句 | 迷いの原因 | ニュアンス |
|---|---|---|
| 多岐亡羊 (たきぼうよう) | 選択肢や情報が多すぎること | 本質や目的を見失う困惑 |
| 五里霧中 (ごりむちゅう) | 状況が不明瞭で手がかりがないこと | どうしていいか全く分からない状態 |
対義語
「多岐亡羊」と反対の、道が一つに定まっていることや迷いがない様子を表す言葉には、以下のようなものがあります。
- 一意専心(いちいせんしん):
他の事には脇目も振らず、ひたすら一つの事に集中する様子。 - 一筋(ひとすじ):
ただ一つの物事に心を傾け、迷うことなく突き進む状態。
英語表現
can’t see the forest for the trees
直訳は「木々に遮られて森が見えない」で、細部に気を取られて全体の状況をつかめないことを表す英語の成句。
forest の代わりに wood を使った can’t see the wood for the trees の形もある。
Smith is good at detail, but can’t see the forest for the trees.
(スミスは細部には強いが、全体が見えていない。)
多岐亡羊の続きは三兄弟の問答
『列子』の話は、楊朱が黙り込んだところで終わりません。
楊朱の弟子の孟孫陽からこのことを聞いた心都子は、後日、孟孫陽と連れ立って楊朱を訪ね、ある兄弟の話を持ち出しました。
三人の兄弟が同じ先生について仁義(= 人への思いやりと、人として正しい道)を学び、家に帰ってきました。
父が「仁義とは何か」と尋ねると、長男は「身を大切にして名誉は後回しにすること」、次男は「命を捨てて名を成すこと」、三男は「身も名も両方守ること」と、ばらばらに答えます。
心都子は楊朱に、三つとも同じ儒学から出た答えなのに食い違っている、どれが正しいのか、と問いました。
楊朱は答える代わりに、川べりで渡し舟を営む泳ぎの名人の話をします。
泳ぎを習おうと弟子が大勢集まりましたが、そのうち半分近くが溺れ死にました。
習ったのは泳ぐことで、溺れることではないのに、結果はこれほど分かれる、という話です。
問答の意味が分からないと不満を言う孟孫陽に、心都子は「大道は多岐をもって羊を亡い、学者は多方をもって生を喪う」と説きました。
大きな道は分かれ道が多いので羊を見失い、学ぶ者はやり方が多いので生き方を見失う、という意味です。
学問はもとは一つなのに、枝先ではこれほど食い違ってしまう、と心都子は続けています。













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