意味
「竹を割ったよう(たけをわったよう)」とは、腹に一物も持たず、からっとしていて気持ちのよいほど潔い性格を指す言葉です。
細かいことにこだわらず、曲がったところのない人物像を指す言葉で、褒め言葉として使われることがほとんどです。
- 竹(たけ):まっすぐな繊維を持つイネ科の植物。
- 割る(わる):力を加えて二つに分ける。
語源・由来
「竹を割ったよう」は、竹を縦に割ると刃物がまっすぐ一直線に入り、迷いなくきれいに割れる性質から生まれた表現です。
竹は繊維が縦にそろっているため、横方向には割れにくい一方、縦方向には気持ちよく割れる特徴を持っています。
この爽快で一直線な割れ方が、曲がったところのないさっぱりとした人柄を連想させ、性格を評する言葉として定着しました。
江戸時代の咄本『一休咄』の序文にも、すでにこの表現が見られます。

使い方・例文
「竹を割ったよう」は、人の性格がさっぱりしていて気持ちが良いことを表す際に使われます。
- 彼女は竹を割ったような性格で、誰からも信頼されている。
- 竹を割ったような物言いが、かえって心地よい。
- 兄は竹を割ったような気性で、後腐れがない。
類義語・関連語
「竹を割ったよう」と同様に、さっぱりとした性格を表す言葉には以下のようなものがあります。
- 裏表がない(うらおもてがない):
見せかけと本心が一致している様子。 - さばさばしている:物事にこだわらず、あっさりとしている様子。
「竹を割ったよう」、一休の心をほめる言葉にも
禅僧の一休の逸話を集めた『一休諸国物語』のはしがきは、一休を「よこしまなる事をきらはせ給ひ、御心は誠や竹を二つにわりたる如く」と書いています。
(よこしまなことをお嫌いになり、お心はまことに竹を二つに割ったようで)
ここで竹の割れ方にたとえられているのは、よこしまを嫌う一休の心です。
明治時代の徳富蘇峰も、1909年の『日曜講壇』で、仲間とうまくやっていく条件の一つとしてこの言い方を使いました。
「其の心地大竹を割りたるが如く素直にして、且つ公平ならば」、たいていの過ちは許される、というのです。
(その心が大きな竹を割ったように素直で、しかも公平であれば)
一休の逸話集はよこしまのない心を、蘇峰は素直な心を、竹を割ったようだと言っています。
今は性格のさっぱりした人に使う「竹を割ったよう」ですが、古い例では、心のありようをほめる言葉として使われていました。










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