意味
「既往は咎めず(きおうはとがめず)」は、中国の思想家・孔子の教えに基づくことわざで、過ぎ去ってしまった過ちを、今さら責め立てても意味がないという考え方を表します。
取り返しのつかないことを蒸し返すより、これから先の行いを慎むよう促す場面で使われます。
- 既往(きおう):過ぎ去ってしまった、以前の事柄。
語源・由来
「既往は咎めず」は、中国の古典『論語』の八佾篇に登場する言葉です。
魯の国の君主・哀公が弟子の宰我に、土地の神を祭る「社」に植える木について尋ねたところ、宰我は、周の時代に栗の木を植えたのは民を震え上がらせるためだと答えました。
この受け答えを聞いた孔子は、すでに終わってしまったことを言ってもどうにもならないという思いから、「成事は説かず、遂事は諫めず、既往は咎めず(済んだことは論じない、してしまったことは止められない、過ぎ去ったことは責めない)」と述べたと伝えられています。
使い方・例文
「既往は咎めず」は、済んでしまった失敗をいつまでも責めず、これからのことに目を向けるよう伝える場面で使われます。
- 部長は既往は咎めずの姿勢を貫き、失敗した部下を責めなかった。
- 既往は咎めずというし、済んだ失敗を今さら蒸し返すのはよそう。
類義語・関連語
「既往は咎めず」と同じように、過去のことにこだわらない態度を表す言葉には、次のようなものがあります。
- 水に流す(みずにながす):
過去にあったいざこざを、なかったことにして許すこと。 - 覆水盆に返らず(ふくすいぼんにかえらず):
一度してしまったことは、二度と元には戻らないということ。
「既往は咎めず」と類義語の違い
いずれも過去の出来事の扱い方を説く言葉ですが、力点が異なります。
「既往は咎めず」は相手の過ちを責めない寛容さを、「水に流す」はわだかまりを消して和解する態度を、「覆水盆に返らず」はやり直しがきかないという事実そのものを述べています。
| 語句 | 主眼 | ニュアンス |
|---|---|---|
| 既往は咎めず (きおうはとがめず) | 過去の過ちを責めない | 相手を許す寛容さ |
| 水に流す (みずにながす) | わだかまりを消す | 双方の和解 |
| 覆水盆に返らず (ふくすいぼんにかえらず) | 取り返しのつかなさ | 事実としての不可逆性 |
対義語
「既往は咎めず」とは逆に、過去の失敗がたびたび思い出されて心を痛めることを説くことわざがあります。
- 古傷は痛み易い(ふるきずはいたみやすい):
過去の失敗やつらい体験は、何かにつけて思い出され、繰り返し心を痛めるものだということ。
英語表現
let bygones be bygones
過去のいざこざを水に流し、気にしないようにする言い方。
Let’s just let bygones be bygones and move forward together.
(既往は咎めずというし、これからは一緒に前を向いていこう。)
forgive and forget
相手を許し、それまでの出来事を気にかけないようにする言い方。
She decided to forgive and forget after their long argument.
(長い言い争いのあと、彼女は既往は咎めずの気持ちで水に流すことにした。)
哀公への答えに孔子が漏らした、突き放すような一言
「既往は咎めず」は、『論語』八佾篇にある「成事は説かず、遂事は諫めず、既往は咎めず」という孔子の言葉が出典です。
すでに成し終えたことは今さら論じず、すでに実行してしまったことは諫めず、過ぎ去ったことは咎めない、という三段構えの言い回しです。
この言葉は、魯の君主・哀公が土地の神を祀る社の木について尋ねた際、弟子の宰我が答えた内容を聞いた孔子が発したものとされています。
宰我の答えに納得していなかったとも言われ、済んだことを蒸し返しても仕方ないという、やや突き放した調子の評だったと解釈されています。










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