坊主・僧侶に関することわざ・慣用句一覧

坊主・僧侶に関することわざ・慣用句一覧 特集
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日本での生活に深く根付いている仏教。
その教えを説くお坊さんは、昔から人々にとって非常に身近な存在でした。

尊敬の対象である一方で、時にはその人間臭さをからかわれたり、厳しい修行の様子が例えに使われたりと、数多くの言葉が生まれています。

僧侶や修行にまつわることわざ、慣用句、四字熟語、故事成語を、意味やシチュエーション別にまとめました。

性格や心理を表す言葉

人の感情や性格、物事への取り組み方を、お坊さんの姿に重ねた言葉です。
日常会話でも頻繁に使われます。

坊主憎けりゃ袈裟まで憎い(ぼうずにくけりゃけさまでにくい)

ある人を憎むあまり、その人に関連するものすべてが憎らしく思えてくることの例え。
「坊主」は僧侶、「袈裟(けさ)」は僧侶が身につける法衣のことです。
本来、尊いはずの袈裟でさえも、着ている人間が嫌いだと憎く見えてしまうという、理屈では割り切れない人間の激しい嫌悪感を表しています。
人を愛するとその人の家の屋根にとまる烏まで好きになるという「愛屋烏に及ぶ(あいおくうにおよぶ)」とは、反対の心理を表す言葉です。

三日坊主(みっかぼうず)

非常に飽きっぽく、何をしても長続きしないこと。
また、そのような人のこと。
厳しい修行に耐えられず、たった三日で俗世間に戻ってしまった修行僧が由来とされています。
現代では、日記、ダイエット、勉強など、習慣が定着しない場面で自嘲気味に使われることが多い言葉です。

坊主丸儲け(ぼうずまるもうけ)

元手がかからず、利益をすべて自分のものにできること。
僧侶は商品の仕入れのような元手が要らず、体一つで説法や読経を行って布施を受け取ります。
その布施がそのまま利益になるように見えることから、世間のやっかみや皮肉が込められた言葉です。

坊主の不信心(ぼうずのふしんじん)

人には立派なことを説きながら、本人はそれを実行していないことの例え。
仏の道を説く僧侶自身が、実は信心深くない様子を皮肉っています。
「医者の不養生(いしゃのふようじょう)」「紺屋の白袴(こうやのしろばかま)」とほぼ同じ意味で使われます。

知らぬ仏より馴染みの鬼(しらぬほとけよりなじみのおに)

よく知らない善人よりも、多少怖くても馴染みのある相手のほうが安心できるという人の心理。
「仏」は善い人、「鬼」は恐ろしい人の例えです。

高僧・名僧にまつわる言葉

書の名人として知られる弘法大師(空海)や、仏教を開いたお釈迦様を引き合いに出した言葉です。

弘法にも筆の誤り(こうぼうにもふでのあやまり)

その道の達人であっても、時には失敗することがあるという例え。
平安時代の僧で書の名人として知られた弘法大師(空海)でも、書き損じることがあるという意味です。
空海には、応天門の額の「應」の字に点が一つ欠けていたのに気づき、下から筆を投げて点を打ったという伝説があり、このことわざはこの話を連想させる表現です。
「猿も木から落ちる」「河童の川流れ」と同じ意味です。

弘法筆を選ばず(こうぼうふでをえらばず)

本当の名人は、道具の良し悪しに関わらず立派な仕事をすることの例え。
弘法大師(空海)ほどの達人であれば、どんな筆を使っても見事な字を書くという意味です。

釈迦に説法(しゃかにせっぽう)

自分よりも遥かに知識や経験がある人に対して、物事を教えようとする愚かさの例え。
「釈迦に経(きょう)」とも言います。
仏教の開祖であるお釈迦様に、教え(説法)を説くことの無意味さから来ています。
「孔子に論語」と同様に、相手がその道の「最高権威」であることを強調する際に使われます。

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修行・読経・環境に関する言葉

お経を唱える行為や、修行の環境が人に与える影響を説いた言葉です。

門前の小僧習わぬ経を読む(もんぜんのこぞうならわぬきょうをよむ)

普段から見聞きしている環境にあれば、知らず知らずのうちにその物事を覚えたり、ある程度できるようになるという例え。
お寺の門前(近く)に住んでいる子供は、毎日読経の声を聞いているうちに、正式に習ってもいないお経を自然と口ずさめるようになることから来ています。
環境の重要性を説く際によく使われます。

馬の耳に念仏(うまのみみにねんぶつ)

人の意見や忠告を聞き流してしまったり、何を言っても全く効果がないことの例え。
ありがたい念仏であっても、それを理解できない馬に聞かせるのは無駄であるという意味です。
「馬耳東風(ばじとうふう)」や「犬に論語」と同じ意味で使われます。

元の木阿弥(もとのもくあみ)

一度良くなったものが、再び元の悪い状態に戻ってしまうこと。
戦国時代の武将・筒井順昭が病死したとき、死を隠すために声の似た木阿弥という盲人を寝所に置いて替え玉とし、子の順慶が成人して喪を公表すると、木阿弥はもとの身分に戻ったという故事からといわれます。
ほかに、妻と別れて出家し木阿弥と呼ばれて尊ばれた人が、年を経て修行を怠り、元の妻とも語らうようになったのを人々があざけったという話によるとする説もあります。

仏・信仰に関連する言葉

僧侶だけでなく、仏様や信仰心、仏教的世界観そのものを表す有名な言葉です。

仏の顔も三度まで(ほとけのかおもさんどまで)

どんなに温厚な人であっても、何度も無礼なことをされれば腹を立てるという教え。
もとは「仏の顔も三度撫ずれば腹立つ」で、慈悲深い仏様であっても、顔を三度もなでられれば腹を立てるという意味です。
「仏の顔も三度」とも言います。

知らぬが仏(しらぬがほとけ)

真実を知れば腹が立ったり悩んだりすることでも、知らなければ仏のように穏やかな心でいられること。
「知らない方が幸せなこともある」という逆説的な真理を突いた言葉です。
当事者が事情を知らずにのんきにしている様子を、少し皮肉を込めて言う場合にも使われます。

牛に引かれて善光寺参り(うしにひかれてぜんこうじまいり)

自分の意志ではなく、他人の誘いや偶然のきっかけによって、良い方向へ導かれること。
昔、信心のない老婆が、さらしていた布を牛に角で引っ掛けられてしまい、追いかけていくうちに信濃の善光寺にたどり着き、そこで改心して信心深くなったという伝説に由来します。

一蓮托生(いちれんたくしょう)

結果の良し悪しに関わらず、行動や運命を共にすること。
元々は仏教語で、「死後に極楽浄土の同じ蓮(はす)の花の上に生まれ変わること」を意味する良い言葉でした。
現在では、「死なばもろとも」のように、悪い結果になる場合でも運命を共にするという文脈で使われることが多くなっています。

嘘も方便(うそもほうべん)

嘘をつくのは悪いことだが、物事を円滑に進めるためには必要な場合もあるということ。
「方便」は仏教語で、仏が人々を悟りに導くために用いる仮の手段のことです。
仏の教えを分かりやすく伝える工夫を指した言葉が、嘘をつくことを認める言い回しとして使われるようになりました。

袖振り合うも多生の縁(そでふりあうもたしょうのえん)

道で袖が触れ合う程度の関わりも、前世からの縁で結ばれているという教え。
「多生」は何度も生まれ変わるという仏教の考え方で、「他生の縁」と書くこともあります。
見知らぬ人とのちょっとした出会いも大切にしなさい、という意味で使われます。

寺の隣にも鬼が棲む(てらのとなりにもおにがすむ)

世の中には善い人ばかりでなく、悪い人も混じっているという例え。
慈悲を説く寺のすぐ隣にも鬼が住んでいるという意外な取り合わせで、善い場所のそばにも悪い者がいることを表しています。

阿弥陀も銭ほど光る(あみだもぜにほどひかる)

お金の力は大きく、世の中の多くのことがお金次第で決まるという皮肉。
ありがたい阿弥陀仏のご利益でさえ、供えるお金の多さで変わるという意味です。
「阿弥陀も銭で光る」とも言います。

もとは僧房の主を指した「坊主」

僧侶一般、さらに男の子を呼ぶ言葉にも広がった

「坊主」は「房主」とも書き、もとは大寺院の中で一坊を構えた僧、つまり僧房の主を指す言葉でした。
室町時代以後、僧侶一般を呼ぶ言葉となり、さらに髪を剃ったり短く刈ったりした頭や、男の子を親しんで呼ぶ言葉にも使われるようになりました。

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