『韓非子』は、『論語』『孟子』『荘子』『老子』と並ぶ諸子百家の書物でありながら、法家思想を大成した実践的な統治術の書です。
矛盾、守株、逆鱗に触れるといった言葉の多くが、この書物にたどり着きます。
まず『韓非子』という書物の姿をたどり、そのうえで書物の記述から生まれた言葉12語と、語源の一部にある言葉1語をまとめました。
『韓非子』とはどんな書物か
韓非という人物
韓非(紀元前280年ごろ―前233年)は、戦国時代の韓の公子に生まれた法家思想家です。
生まれつき重い吃音があり、弁舌では人に劣ったものの、文章の才に優れ、多くの著作を残したと伝えられています。
荀子に学んだとされ、のちに秦の丞相となる李斯とは同門だったといいますが、確実な師弟関係を疑う見方もあります。
秦王政(後の始皇帝)は韓非の書いた「孤憤」「五蠹」などの篇を読んで深く感服し、著者に会えるなら死んでも悔いはないと語ったと伝えられています。
使者として秦に渡った韓非でしたが、その才能を恐れた李斯の讒言により投獄され、送られた毒を仰いで獄死しました。
法家思想の集大成、55篇の構成
『韓非子』は全55篇・十余万語からなる書物です。
商鞅の説いた「法」(客観的な規則)、申不害の説いた「術」(人を用いる技術)、慎到の説いた「勢」(君主が持つ権力の基盤)という、それ以前の法家思想家たちの説を統合し、集大成したものとされています。
「五蠹篇」「孤憤篇」「二柄篇」「説難篇」など統治論を説いた篇のほか、「説林」「内儲説」「外儲説」など、寓話や故事を数多く集めた篇があり、ここから多くのことわざ・故事成語が生まれました。
さらに「解老篇」「喩老篇」という、老子の言葉を法家の立場から解釈した篇も含まれており、韓非が老子の思想を強く意識していたこともうかがえます。
『韓非子』に由来する故事成語12語
『韓非子』に記された寓話や一節が、そのまま日本語の言い回しになったものを集めました。
韓非子を代表する寓話2語
- 矛盾(むじゅん):
物事の前後のつじつまが合わないこと。
楚の商人が「どんな盾も貫く矛」と「どんな矛も防ぐ盾」を売り、両方を同時に問われて答えられなかったという「難一篇」の故事から。 - 守株(しゅしゅ):
古いやり方に固執し、進歩がないこと。「守株待兎」とも。
宋の農夫が、切り株にぶつかって死んだ兎を偶然手に入れたことに味を占め、以後は畑仕事をやめて切り株を見張り続けたという「五蠹篇」の故事から。
老馬の知恵をめぐる2語
- 老いたる馬は道を忘れず(おいたるうまはみちをわすれず):
長年の経験を積んだ者は、いざという時にも確かな判断ができるというたとえ。
斉の桓公に従った名臣・管仲が、山中で道に迷った際、老いた馬を放してその後についていかせ、無事に道を見つけたという「説林上篇」の故事から。 - 老馬の智(ろうばのち):
経験を積んだ者の知恵は、いざという時に頼りになるということ。
前項と同じ「説林上篇」の故事に由来する、同じ話のもう一つの言い方。
君主の統治術をめぐる3語
- 生殺与奪(せいさつよだつ):
人を生かすも殺すも、与えるも奪うも、思いのままにできる絶対的な権力を持つこと。
君主が家臣を統率するための力は、罰を与える権限(刑)と褒美を与える権限(徳)の二つに集約されるという「二柄篇」の思想から生まれたとされる。 - 水は方円の器に従う(みずはほうえんのうつわにしたがう):
人は環境や交際する相手によって、良くも悪くもなるというたとえ。
「外儲説左上篇」にある、器が四角ければ水も四角くなり、器が丸ければ水も丸くなるという一節から。もとは君主のあり方が人民を決めるという政治の教えだった。 - 逆鱗に触れる(げきりんにふれる):
目上の人を激しく怒らせること。
竜のあごの下に一枚だけ逆さに生えた「逆鱗」に触れると、竜は必ず人を殺してしまうという「説難篇」の記述から。
家臣の心得2語
- 唯々諾々(いいだくだく):
物事の善悪にかかわらず、他人の意見に従うこと。
君主に取り入る側近が、命じられる前から「はい、はい」と応じる様子を描いた「八姦篇」の一節から。 - 巧詐は拙誠に如かず(こうさはせつせいにしかず):
巧みに人をだますより、不器用でも誠実であるほうが勝るということ。
「説林上篇」にある、要領よく立ち回った家臣が主君に疑われ、不器用ながら情に厚かった家臣が重用されたという対照的な逸話から。
小さな油断への戒め3語
- 毛を吹いて疵を求む(けをふいてきずをもとむ):
他人の欠点を無理に探し出そうとすること。
「大体篇」にある、家臣の小さな落ち度をことさらあげつらうべきではないという戒めが、のちに裏返って定着した。 - 氷炭相容れず(ひょうたんあいいれず):
性質が正反対のものは、同じ場所に共存できないということ。
「顕学篇」にある「氷炭は器を同じくして久しからず」(氷と炭火は同じ器に入れても長くは持たない)という一節から。 - 蟻の穴から堤も崩れる(ありのあなからつつみもくずれる):
小さな油断が、やがて大きな災いを招くということ。
「喩老篇」にある「千丈の堤も蟻穴を以て潰ゆ」(千丈もの堤防でさえ、蟻の穴が原因で崩れる)という一節から。
『韓非子』に語源の一部がある言葉
次の言葉は、『韓非子』の一節がそのまま言葉になったものではなく、同書にある思想や一節が背景の一つとして伝わっているものです。
- 虎に翼(とらにつばさ):
ただでさえ強いものに、さらに勢いを加えること。日本では味方の強化を指す良い意味でも使われる。
もとは、より古い書物『周書』(逸周書)にある「虎の為に翼を傅くることなかれ」(虎に翼を与えてはいけない)という一節を、「難勢篇」で韓非が引用し論じたもので、韓非自身の創作ではない。もとの中国語「爲虎傅翼」は、無能・凶悪な人物に権力を持たせるなという統治上の警告で、現代でも悪い意味でしか使われない。
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