『孟子』は、『論語』『史記』と並んで、日本語の故事成語の出典としてしばしば名前が挙がる書物です。
性善説、五十歩百歩、助長といった言葉の多くが、この一冊にたどり着きます。
まず『孟子』という書物の姿をたどり、そのうえで書物の記述から生まれた言葉21語を、テーマごとにまとめました。
『孟子』とはどんな書物か
孟子という人物
孟子(もうし、紀元前372年ごろ―前289年ごろ)は、鄒(現在の山東省)に生まれた戦国時代の思想家です。
孔子の孫にあたる子思の門人に学び、儒教の教えを受け継ぎました。
人間は生まれながらに善なる性質を備えているとする「性善説」を説き、武力ではなく仁徳によって民を治める「王道政治」を諸侯に説いて回りましたが、その理想が受け入れられることはなく、晩年は故郷に戻って弟子の教育にあたりました。

実際の姿を伝えるものではなく、後世の想像による伝統的な肖像画。
全七篇十四巻の構成
孟子の言行は、弟子たちの手によって『孟子』という書物にまとめられました。
もとは梁恵王・公孫丑・滕文公・離婁・万章・告子・尽心の七篇でしたが、後漢の趙岐がそれぞれを上下に分けて注釈をつけたことで、現在に伝わる十四巻の形になりました。
篇の名前の多くは、孟子が対話した王侯や弟子の名前を冒頭からそのままとったもので、『論語』の篇名と同じく、内容を示す見出しではありません。
「四書」の一つとしての地位
『孟子』が経典として重んじられるようになったのは、南宋の朱熹(朱子)が『論語』『大学』『中庸』と並ぶ「四書」の一つに位置づけてからのことです。
朱熹は『孟子集注』という注釈書を著し、四書を五経よりも先に学ぶべき基本の書物としたことで、『孟子』は中国・日本の教養の土台として定着しました。
『孟子』に由来する故事成語17語
『孟子』に記された孟子自身の言葉や、王侯・弟子との問答が、そのまま日本語の言い回しになったものを集めました。
人間の本性と徳をめぐる3語
- 惻隠の心(そくいんのこころ):
他人の不幸を見過ごせず、かわいそうに思う心。
「公孫丑上」篇で、井戸に落ちそうな子供を見れば誰もが理由や打算なしに駆け寄って助けようとするはずだと説いた「惻隠の心」から。 - 自暴自棄(じぼうじき):
失敗や絶望から、自分を見捨てて投げやりになること。
「離婁上」篇で、自ら道徳を否定し正しい道を放棄する者を孟子が戒めた言葉から。 - 大丈夫(だいじょうぶ):
危なげがなく、安心していられるさま。
「滕文公下」篇で、弁論家こそ本物の大丈夫だと言う景春に対し、孟子が「富貴も心を乱すことなく道を貫く者こそ大丈夫だ」と説き返した場面から。
政治と仁政をめぐる6語
- 乱臣賊子(らんしんぞくし):
国を乱す臣下と、親に害を加える子。
「滕文公下」篇で、孔子が歴史書『春秋』を著すと、国や家を乱す者たちが恐れをなしたと孟子が語った場面から。 - 鰥寡孤独(かんかこどく):
老いて連れ合いのない者や、親も子もない者など、身寄りのない人々の総称。
「梁恵王下」篇で、周の文王の政治を例に、老いて妻のない者を鰥、老いて夫のない者を寡、老いて子のない者を独、幼くして父のない者を孤と呼び分け、仁政の対象とした話から。 - 天涯孤独(てんがいこどく):
血縁も知り合いも、頼れる相手が誰一人いないこと。
上の「鰥寡孤独」の四者を、身寄りのなさという一点から言い換えた言葉。 - 飽食暖衣(ほうしょくだんい):
着るものや食べるものに何の不足もない満ち足りた生活。
「滕文公上」篇の「飽食暖衣し、逸居して教え無くんば、則ち禽獣に近し」という一節から。 - 流連荒亡(りゅうれんこうぼう):
酒色や遊興にふけって、本業や政治を怠り、身を持ち崩すこと。
斉の名臣・晏子が主君の景公を戒めた「流」「連」「荒」「亡」の四字を、孟子が引いて説いた話から。 - 五十歩百歩(ごじっぽひゃっぽ):
わずかな違いはあっても、本質的には変わらないこと。
「梁恵王上」篇で、戦場から五十歩逃げた者が百歩逃げた者を笑ったらどうかと、梁の恵王に問い返した孟子の譬えから。
学問と生き方をめぐる8語
- 読書尚友(どくしょしょうゆう):
書物を読んで、昔の賢人を友とすること。
「万章下」篇の、古人の詩を吟じその書を読み、その人となりまで論じるという一節から。 - 一暴十寒(いちばくじっかん):
少しの間だけ努力しても、怠けている期間が長ければ成果は上がらないこと。
「告子上」篇で、いくら生命力の強い植物でも一日温めて十日冷やせば育たないと孟子が語った譬えから。 - 助長(じょちょう):
ある物事の進行、特に好ましくない傾向や事態を意図せず悪化させてしまうこと。
「公孫丑上」篇の、苗の生長を早めようと引っ張って枯らしてしまった宋人の寓話から。 - 木に縁りて魚を求む(きによりてうおをもとむ):
方法が間違っているために目的を達成できないこと。
「梁恵王上」篇で、武力による天下統一を望む斉の宣王を、孟子が「木に登って魚を求めるようなものだ」と諭した言葉から。 - 来る者は拒まず、去る者は追わず(くるものはこばまずさるものはおわず):
慕ってくる者は寛容に受け入れ、去っていく者は本人の自由意志を尊重して無理に引き留めないこと。
「尽心下」篇の「往く者は追わず、来る者は拒まず」から。 - 出類抜萃(しゅつるいばっすい):
多くの人や物の中で、特別に抜きん出て優れていること。
「公孫丑上」篇で、孟子が孔子を「同類から抜け出し、集団から抜きん出ている」と評した言葉から。 - 先覚者(せんかくしゃ):
人より先に物事の道理を悟り、人々を導く人。
「万章上」篇の「天のこの民を生ずるや、先知をして後知を覚らしめ、先覚をして後覚を覚らしむ」という一節から。 - 夜を以て日に継ぐ(よをもってひにつぐ):
夜も昼も休むことなく、絶え間なく物事に打ち込むこと。
「離婁下」篇で、周公が歴代の王の政治を手本にしようと、夜を徹して考え続けたという故事から。
『孟子』に語の一部が見える言葉3語
次の言葉は、『孟子』の記述がそのまま言葉になったものではありません。
四字のうち一部だけが『孟子』に見える、あるいは背景となる話だけが『孟子』にある、という関わり方です。
- 安心立命(あんしんりつめい):
人の力を尽くしたうえで身を天命に任せ、どんなことが起きても心を動かさないこと。
「立命」の部分が『孟子』尽心上にある言葉からの転用で、「安心」は仏教・禅宗側の言葉と組み合わさってできている。 - 一意専心(いちいせんしん):
ひたすら一つのことに心を集中し、他のことには脇目もふらないこと。
「専心」の語は『孟子』などにも見えるが、「一意専心」という四字の組み合わせ自体は日本で定着したもの。 - 無為徒食(むいとしょく):
働く能力があるのに仕事もせず、遊び暮らすこと。
「滕文公上」篇の「不耕而食(たがやさずして食らう)」という表現が、「徒食」の由来の一つとされている。
孟子という人物にまつわる言葉
『孟子』という書物そのものではなく、孟子という人物の生涯にまつわる逸話から生まれた言葉もあります。
- 孟母三遷(もうぼさんせん):
子供の教育には、周囲の環境を整えることが最も大切であるという教え。
孟子の母が住まいを三度移したという逸話に由来するが、この話は『孟子』ではなく、前漢の『列女伝』に記されている。
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